もう直ぐ結審をむかえるあの事件の事
2020年02月25日
2020年は暖冬のせいもあってか、ボケたような正月陽気に誘われて惚ける人間に冷や水をかぶせる事件で幕を開けた。それは御用始も早々にしての横浜地方裁判所で始まった我が国でも例を見ない極悪非道な「相模原市津久井やまゆり園殺傷事件」の殺人犯植松聖被告の公判開始である。
犯人の優生思想に基づく19人の死者と26人の傷害者がでるという確信犯事件である。
我々障害福祉関係者にとっては、この20年以上前から実践上のkey wordとなっている「共生」とか「尊厳」とか「人権」とかの理念の重要性、そしてその理念と日々の実践との齟齬を自他ともに問い続けて来た経緯がある。しかし
この事件はそれらのことが根本からひっくり返されたショックとしかもそれが我々の仲間である支援者によって、しかもその彼がそうした思想を持って指定管理とは言え公立の施設で支援者として何年も働いていたということである。
さらにはこうした思想の持ち主が周囲の関係者の誰からもそのことに改善とか修正を加えられることなく犯行までに及んでいるというショックである。
この間の我々の数多のあの努力は何であったのだろうか。この事件に対する犯行者自身の責任はもちろんであるが、彼の人格形成なり、支援従事者としての養成に係わってきた関係者に道義的な問題は問われないのだろうか。
そのことにほぼ無力であったか無作為であった技術優先に陥っている養成機関のあり様にも大いに反省の必要があるともわれるが、残念ながら今のところ誰もこれらのことを指摘する者はいないようだ。甲Aとか、乙Bとか呼ばれている被災者の彼らは何を思っているのだろうか。もっと彼らの思いに寄り添えるイマジネーションを持ちたいのだが。
この問題は福祉という人間に向き合う仕事には、技術や知識の必要性はあるとしてもそれらがモザイク的で断片的なものであっては意味がない。また同時に、ある意味それ以上に大事なのは当事者を前にしての黒子としてどこまでもより添う覚悟のうちに、それらを表裏一体的に結びつけ、意味付ける支援者側の思想性が問われるからである。そのことの欠落が今回の事件で問われている不可避的な大きな課題ではないだろうか。
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