津久井やまゆり園の事件を考える
2016年08月15日
7月26日の未明に神奈川県内の障害者支援施設「津久井やまゆり園」において信じられない、あり得ない大量殺傷事件が起きた。入所されている方々のなかで、特に障害の重い方々を狙い撃ちにしたということ、しかもその容疑者が元職員であったというのである。犯行後、警察での取り調べに対して「障害者なんていなくなればいい」と語ったとか。
我々障害福祉にかかわる者にとって、近年の社会的、制度的な共生思想の深まりとその日常化には大いに共感と賛同をもって受け入れ、評価していた矢先にこれである。
被害にあわれたご本人はもちろんご家族や関係者の方々へのご冥福とお見舞いを申し上げると同時に、我々支援者の仲間であった者がしでかした事件に対して、心からお詫びを申し上げたい。
しかし、この事件は我が国の福祉思想の底の浅さを露呈したものと思えてならない。まだまだ我が国には、人も社会も一見平和で、穏やかで、慈愛に満ちた表情を見せているがその根底には悪魔的な優生思想や強者崇拝が根深く残っているということではないのか。技術優先主義、成果主義、序列主義などはいざ社会がカタルシスの事態になればいつでも弱者を切り捨て、抹消しようとするデモニッシュな価値観に豹変するからである。
そんな思いに呻吟する中で、いくつかの課題が思いつくのだが・・。
1:容疑者が育ち、学び、働く過程において誰も彼の歪み切った発想や思考傾向に語りかける者はいなかったのか?
2:とりわけ、障害者施設に働いた数年間に垣間見られただろう偏向思想傾向に対して、我々関係者にとっての大きな課題でもあったパラドックス的な意識改革、共生思想教育は職場で試みられなかったのか?
3:亡くなられた方々をはじめ、被害にあわれた方々の一人ひとりの掛け替えのない命、人格はどのように扱われたのか。覆いかくして、人目に触れさせないことが本当に被害者の意思に沿うのであろうか?
4:この事件を契機に障害者関係施設が門戸を閉ざし、社会から隔絶されることがあってよいのだろうか?
5:「角を矯めて牛を殺す」、「羮に懲りて膾を吹く」の諺にもあるように、多様性を認め、尊重し合おうとする共生社会が推進されようとしている時に、厳しい選別と隔離という時代に逆行するようなことがあっていいのだろうか?
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