「急げ! 有言実行の時」
2002年11月1日
我が国が丁度戦後半世紀を経る時期に,世紀が新しいミレニアムの21世紀へと変わった。少子高齢化の急速な進展や家族形態とかライフ・スタイルや価値観の多様化など戦後半世紀の間の社会状況の急速な変化,新しい世紀が始まることを契機に新しい発想とか新しい仕組みへと変わろう,変えようといった国民的な変革ム-ドの高まり,さらにはバブル崩壊後の諸体制の閉塞感や国民感情の不全感などから社会の様々なジャンル,例えば金融・財政・政治・医療・保険・年金・福祉・雇用など我々の日常生活に大きな影響を与える多くの分野において世直し機運が急速に高まり,具体的に着手され始めている。
当然のことながら教育を取り巻く世界,すなわち発達期にある子ども達を取り巻く社会状況も大きく様変わりをして久しい。「子どもが危ない」とか「公教育が危ない」と言われてもう何年が経つのであろうか。教育には莫大な税財源と量的にも質的にも潤沢な物量人材を宛われているのに子どもも保護者も行政関係者もさらには教師自身までも含めた関係者誰一人として今日の教育に満足しているものはいない。しかし教育界は何故にこれほど改革に臆病であり保身的であり得るのか。「親方日の丸」的発想の中で惰眠を貪っているのではと苛立ちを感じているのは私一人であろうか。もう外堀は埋められたのである。これだけ教育批判が姦しい中で長い歴史と巨大な組織をもてあまし,自己変革とか自浄作用が効かなくなってしまっているこの業界もようやく重い腰を挙げようとしている。具体的には平成13年1月の「21世紀の特殊教育の在り方について(最終報告)」,さらには今回の「今後の特別教育の在り方について(中間まとめ)」である。これらの中で示されている発想や視点として注目すべきものとしては①集団から個への視点のシフト,②箱物中心の量的対応から質的な個別プログラム対応へのシフト,③医療モデルから生活モデルへのシフト,④受け身的与えられる教育から主体的に学ぶ教育へのシフト,⑤関係者・機関とのネットワ-キング,⑥障害種別をクロスオバさせた対応,⑦規制緩和からの先駆的取り組みの奨励,⑨就学前機関との連携,⑩特別支援教育コ-ディネ-タ-の設置,⑪LDやADHDなど通常学級在籍児への対応とその対応の専門性の強化などが指摘されていることである。これらの視点が教育の世界でようやく取り上げられたことは評価したいが,しかしながらこれらの視点はいずれも我が国における障害児者関連の世界ではすでに広く話題になり議論がされてきている内容ばかりであることは明らかである。とりわけ近年の地球的規模で広がりを示しているノ-マライゼ-ションの考え方とか最近の我が国の社会福祉基礎構造改革の理念に重点的に取り上げられている内容と近いものである。その意味では特に平成15年4月から始まる障害のある人々の暮らしに関する制度が「措置制度から利用契約制度へ」と大きく変わることについて教育関係者にはどこまでその内容理解とそれに呼応した実践的取り組みがなされているのであろうか。
「一人ひとりが多くの量的質的な課題を持ちながらも,適切な支援を得ながら,地域の中で,主体的に尊厳性を確保しながら自己実現を図り生きる」ことを支えようとする社会が未だ体制的には不十分ながらも理念的には始まろうとしている。一生を地域社会から隔離され,主体性や自由が担保されたところでの管理された生活ではなく,リスキ-かもしれないが自分らしく人生を送りたいと願う彼らの後期中等教育後の生活が加速的に地域の中で進められようとしている時にそれに先行する教育現場において新たな課題が新規に追加されたり,修正されたりするのではないだろうか。そのことについての研究やプログラム開発などが発達段階やライフ・ステ-ジとの関係の中でどこまで取り組まれているだろうか。例えば「障害の自己覚知」,「拒否や浪費行為などの生活への活用」,「HELP CALLと自己努力」,「自己選択・自己決定」,「多様な人間関係の中での実践的ソ-シャルスキル」などの即戦的取り組みが緊急に求めれているのではないのだろうか。
教育の世界が陥ってきた高いプライドからくるドグマティックな孤立孤高状態は今こそ脱却すべきであるし,そうした努力の中での関係者の気づきとそれに基づく新たな築きに期待したい。何故なら子どもの育ち支援は教室内の,眼前の子どもへの対応だけでは完結しないからである。子どもを含めた家族生活への支援,特に障害受容とか父親への対応について,さらには地域社会からの偏見や差別など心理的バリアを克服するための地域社会に向けた活動(福祉文化の創造)なども不可欠な取り組みではないだろうか。また既存の障害保健福祉圏域と学校レベルでの圏域との整合性を無視して関係機関連携が効率よくスム-スに行くのだろうか。就学前とか卒後の関係者・機関との連携は教育サイドの協力と支援と同時に教師自身が地域から謙虚に学ぶ姿勢は必要ないのだろうか。さらには既存の制度に収まらず放置状態に置かれた子ども達を視野に入れた対応が求められているのではないだろうか。さらにはLDやADHDを軽度という表現で扱うことは彼らへの適切な対応・対策を誤ることにならないだろうか。未だ課題は山積している。
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