今年もメジロがやってきた
2023年01月31日
東京地方の新年は昨年末頃から暖かで、穏やかな陽気が続き、そのまま正月に突入した。正月といえば、日常の緊張が解きほぐされて締まりのない時間をぐだぐだと過ごすのが通例になっているが、今年はそれに輪をかけたようにあたかも周りの空気がお神酒で火照った心身を包みあぐねるかのようであった。
そんなことになった因はそうした陽気のせいでもあるし、私的には息子や娘家族がコロナをはじめとする様々な事情で例年のような元旦に我が家に全員集合とならなかった性でもある。
3歳から9歳までの孫たちの賑わいがないこと、このところ家飲みで過ごすことの多かったwineにお付き合いをしてくれる婿や嫁たちと最近話題になっているorange wineをと正月に用意したwineの飲み比べが叶わなかったことなどがっかり感や一抹の寂しさ感と共に、幼い頃から当たり前のように身についたあの元旦の朝の高揚した気分のない正月は治まりどころのないダングリング状態の気持ちに陥っていたのだ。
このところのコロナで通常とは違うことがあるのは、特に昨年は我が身に被った怪我もあってよくよく味わっていることであった。そして、あたりまえに思い、あたりまえに行なっていた日々の生活というもろもろの仕草や行為、行動、眼に触れる光景がいかに我々一人ひとりの日々の心情の安定とか安心に大切なことかを実感させられてきた。なんでもない日々の暮らしでの姿や心情が寄せては引くあの波のようにほぼほぼ永遠と思えることこそが生きる上で求められる勇気とか元気とか優しさとか謙虚さの基本だと思える。
一方ではそんなマンネリ化した当たり前のなかに時々非日常が入り込んでくることもまたまた不可欠なことのように思える。その代表的な出来事が「正月」なんだろう。その意味では思い切りその非日常性を心身共に飽和状態にまで盛り上げ堪能することは、それ以外の圧倒的なひねもす日々の価値を高めることでもあると思うのだが。
そんなことを感じながらも、はや立春を間近にして陽射しがめっきり明るく、輝きを増してきた。我が家の庭には人間界のカオス事態には興味がないかの如く今年もメジロたちがやってきて庭木に突き刺した蜜柑を美味しそうに摘んでいる。
そうなんだ! このメジロの訪れこそが、竹の節のように私の心の平常心の節目のような意味を持つ現実なんだと思え、見飽きることがない。
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